「井原西鶴と近松門左衛門は浪速で活躍した文学者で少し趣が違うが浄瑠璃などの劇作家として、また年齢的にも西鶴が11歳年上で互いに相手を意識し丁々発止の浪速の演劇興行を競い合ったようだ。井原西鶴は江戸時代前期の俳諧師、浮世草子作者。大坂人。出自、家系図等不詳。伊藤梅宇の「見聞談叢」(1738年)によれば本名平山藤五。大坂の裕福な町人の弟子であったが、家業を手代に譲り自由気ままに暮らし諸国を遊歴する傍ら俳諧、浮世絵草子等の文筆に従事したという。自ら記して1656年(明暦2)15歳の頃から俳諧を学び、21歳のときには点者として独立したいという。俳号は鶴氷。はじめ貞門俳諧を学んだらしいが、のちに談林は俳諧の祖西山宗因に師事した。1673年(延宝元)32歳のとき大坂生玉において「生玉万句」を興行「阿蘭陀流」とされる軽妙奇抜な軽口・狂句の俳諧を天下に呼号した。この年冬に西鶴と号した。1675年4月3日妻没す。あとに3人の幼児が残された。悲嘆にくれた西鶴は追善のために「俳諧独吟一日千句」を手向けた。西鶴はこの年の内に法休し、家業を手代に譲ったものこの頃とであろうと考えられている。1693年8月10日没。享年52才。大坂誓願寺の墓門人北条団水、下山鶴平によって建立された。亡くなった時には西鶴の一家は離散していたらしく家庭的には不遇な障害であったと考えられる。「近松門左衛門」(1653年~1724年)江戸時代の劇作家。本名は杉森信盛。越前国吉江藩士信義の次男。出自については諸説はあるが、現段階では福井が確実視されている。1667年(寛文7)頃、父が浪人して上京したため一家とともにこれに従い、やがて一条恵観などの公家に奉公し、この時期に文学的教養を身に着け、また芸能とも親しむようになったと思われる。演劇の世界に入った時期は不明であるが、最古の確実作は1683年
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