南北朝時代の武将、室町幕府初代将軍。1338年~1358年在職。足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。六波羅探北方探題赤橋久時の女登子と結婚。1331年(元弘元)8月、後醍醐天皇が笠置で挙兵したとき、北条高時の命令によって。大仏貞直ととに幕府軍を率いて上洛「元弘の変」を平定ご、鎌倉に帰った。高氏は、父貞氏の葬儀も済まないままに高時から強引な出兵命令を受けたことに深く怒り、北条氏打倒を決意を固めたという言われている。1333年2月、天皇が隠岐を脱出して船上山にこもるや、幕府軍を率いて再度西上したが、三河で一門の長老吉良貞義に北条討伐の決意打ち明け、近江の鏡宿で討幕の綸旨を受けて、伯耆への行軍を偽装しつつ丹波に至り、4月、篠村八幡宮の社殿で源氏再興の旗を上げた。5月、高氏は、赤松則村、千種忠顕らと京都に侵攻して六波羅探題を滅ぼし、奉行所を置いて、全国各地から上洛する武将たちを傘下に加えた。この間、関東では新田義貞が上野で挙兵し、激戦の内に鎌倉幕府を滅亡させた。この時高氏は嫡子千寿王が討幕軍に加わった。6月、天皇は帰京後直ちに高氏に昇段を許して鎮守府将軍とし、討幕戦に高氏の戦功を賞揚して自ら諱の一字を与えた。尊氏は、武蔵国など3か国の国務と守護職、さらに豊前国門司関をなど北条氏の遺領30か所に及ぶ所領を与えた。しかしながら尊氏は征夷大将軍に任命されなかったことに不満として、その後建武政権のいかなる機関にも参加せず奉行所を強化し、これを見た後醍醐天皇の子護良親王は逆進有りと称するほどであった。このため、尊氏は親王と対立し、1334年(建武元年)11月には、後醍醐天皇に親王の逮捕を強要し、親王の身柄を鎌倉の弟足利直義のもとに送り、ついに幽閉した。1335年6月北条時行が信濃に挙兵して鎌倉に侵攻するや、尊氏はそれを鎮圧するために東下したが、この時も征夷代将軍の称を許されなかった。8月には、時行軍を撃破し鎌倉を奪回したものの、直義の諫言を受け入れて帰洛せず、11月、逆に直義の名のもって、新田義貞誅伐の檄文を諸国に送って軍勢を催促を行った。義貞誅伐を名目に、建武政権への反意を表明した。その後二転三転し尊氏は九州に落ち延びて再び上洛し足利幕府の創設者となり、南北朝時代に移っていき、時代の左右する当事者として足利幕府の初代将軍となる。
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