日本を代表する武田三代の研究者が、武田三代の波乱の歴史を語る。武田信虎はいかにして、名実ともに甲斐の覇者となったのか。信長、謙信、足利義昭を驚倒させた信玄の外交戦略とは。長篠の戦いの後、一度は信玄時代を超える最大の版図を得たにもかかわらず、なぜ勝頼は武田家最後の当主となったのか。さらに、信玄があのタイミングで信虎を追放した理由、長篠の戦いの真の敗因なども、近年の研究成果を踏まえて明快に解説。甲斐源氏の家宝「御旗・楯無(鎧)」を代々受けついだ名門武田家の実像に迫る。名門源氏意識―戦国武田三代を呪縛し続けたもの第1部 武田信虎(武田信虎の前半生;首都甲府の建設;甲斐統一の達成;信虎の外交路線転換と勢力拡大;信虎追放)第2部 武田信玄(晴信、信濃経略を開始す;川中島合戦始まる;川中島の激戦と西上野侵攻;義信事件と武田氏の外交路線転換;駿河出兵と三国同盟崩壊;信玄の西上と死)第3部 武田勝頼(武田勝頼の攻勢;長篠合戦;武田勝頼、再起を目指す;武田勝頼の栄光と挫折;武田氏滅亡)日本を代表する戦国期武田三代の研究者が、その波乱の歴史を語る。武田信虎は1507年、国衆が周囲に割拠し、しかも今川・伊勢・諏方氏と敵対関係に陥っている状況で武田惣領家を受け継いだ。その後、信虎はいかに甲斐統一、また首都甲府の建設を成し遂げたのか。その信虎を追放し家督を継いだ信玄は、武田家の版図を信濃、飛騨、駿河にも広げ、晩年には足利義昭・織田信長・上杉謙信を驚倒させる外交戦略をとって信長と対峙する道を選ぶ。信玄が打倒信長にこだわった理由とは。しかしその直後信玄は急死し、諏方神(すわじん)氏を称していた勝頼が跡を継ぐ。長篠の戦いのあと、一時は信玄を超える最大の版図を得たのにもかかわらず、勝頼はなぜ最後の武田家当主となっ
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