戦後を通して映画や小説の中で描かれ続けてきた特攻隊。しかし特攻隊は、すでに戦中から雑誌や映画を通して儀礼的な表象として構築され流通していた―特攻隊をめぐる戦後の表象が、単なる想起や再現、美化や歪曲ではなく、戦中の変奏的反復であることを、戦時下の劇映画から『永遠の0』(二〇一三)にいたるまでの特攻隊映画の変遷を通して解き明かす。序章 「戦争の経験」と特攻隊映画第1章 表象としての特攻隊―ニュース映画とグラフ雑誌(「生きてゐる神様」の創出―敷島隊の表象;死の儀礼―"昇天"と"蕩尽";特攻隊表象の形式と論理)第2章 "状況"としての特攻隊―戦時下の劇映画(戦争末期の映画界と実現しなかった特攻隊映画;「国民」の特攻隊映画―『必勝歌』(一九四五)と『乙女のゐる基地』(一九四五);敗戦日本を哀悼する―『最後の帰郷』(一九四五))第3章 "体験"としての特攻隊―ポスト占領期の特攻隊映画("運動体"としての特攻隊映画―『雲ながるる果てに』(一九五三)1;戦後特攻隊映画の範例―『雲ながるる果てに』(一九五三)2;範例からの展開―『人間魚雷回天』(一九五五))第4章 娯楽としての特攻隊―高度経済成長初期の特攻隊映画(特攻の「活劇」化―『人間魚雷出撃す』(一九五六);特攻隊映画の「むずかしさ」―『最後の戦斗機』(一九五六)と『殉愛』(一九五六);範例からの退行―『「雲の墓標」より空ゆかば』(一九五七))第5章 ジャンルとしての特攻隊―撮影所時代の特攻隊映画(ジャンル化とその諸相;作家たちの抵抗と折衝;ジャーナリズム映画批評による総括(一九七四))終章 "記憶"としての特攻隊―ポストモダンの特攻隊映画(特攻隊映画における"証言"と"記憶";ポストモダンの特攻隊映画における"記憶"の構築と表象の変容)
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