林羅山(1583~1657)江戸初期の儒者。名は信勝・忠、通称又三郎・林道春、字は子信、別名は羅浮子・夕顔巷。祖父は加賀の牢人で、京都市四条新町に生まれた。13歳で建仁寺に入り、儒仏を学んだが、15歳で寺を出て、18歳の時朱子学に志した。1603年(慶長8年)京都で講席をを開いて「論語集註」を講じ、翌年角倉素庵の紹介で藤原惺窩に書を送り、その門人となった。1605年二条城で徳川家康に拝謁し、以降その信任を得て幕府の文事に従事し、家康の死後も秀忠・家光・家綱と4代の将軍に仕え、古書旧記の調査収集と出版、朝鮮通信使の応接、寺社関係の裁判事務、外交文書や諸法度の草庵作成にあたり、幕府運営に貢献した。1630年(寛永7)家光から上野忍岡に屋敷を与えられた、そこに家塾を開いた。これがのちの「昌平黌」(しょうへいこう)の基になった。しかし1657年(明暦3)明暦の大火で書庫が焼失し、その落胆の為か4日後病死した。家は三男林鵞宝峯が継ぎ、羅山は後の幕末まで続く幕府儒官「林家」の祖となった。羅山はすでに家康に拝謁した段階で440余の漢籍を読破し、その後も大いに読書を重ね、博学多識の人として有名で、漢書籍や国文学の注釈、儒学の入門書、排物書、辞書、随筆、紀行など広い分野で著書を残した。また、羅山は、現世の人間関係に着目点で、近世の人倫的世界の先駆けとなったといえるが、社会秩序の維持を至上目的にしたために、その世界観を徹底できず、思想上の独創性は乏しい。しかし、啓蒙家としての性格に富み、朱子学を信奉して、陸象山や王陽明学風を排したり、儒学の立場から神儒一致を解いたところに特色を見られる。羅山こうした多彩な活動によって儒者の社会的地位を高めその後の儒学の発展に寄与したといえる。
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