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マーラー(1860-1911) Berlin Classics *cl*
ボーナスCDにリュッケルト歌曲集を収録 マーラー:交響曲第5、6、9番 (3CD) ギュンター・ヘルビヒ指揮ベルリン響、ザールブリュッケン放送響 交響曲第6番と第9番はザールブリュッケン放送響との演奏。本拠地コングレスハレで1999年と2001年にライヴ録音されたもので音質は優秀。   交響曲第5番とリュッケルト歌曲集はベルリン交響楽団との演奏。1979年と1980年にベルリンのキリスト教会でエテルナがセッション録音したもので、ホルンの音が素晴らしい名匠シュトリューベンの傑作。ローレンツとのリュッケルト歌曲集では、歌い崩しゼロの精妙な表現が、交響曲への素材引用の検証にも最適な仕上がりとなっています。 ドイツの名匠、ギュンター・ヘルビヒ かつて東ドイツで活躍した指揮者には実力派が揃っていますが、ギュンター・ヘルビヒもそのひとりです。ヘルビヒはヘルマン・アーベントロートに師事し、最初の仕事もアーベントロートが音楽監督を務めていたワイマール国民劇場で得ています。 1956〜1966 劇場指揮者 1956年、ワイマール・ドイツ国民劇場の指揮者として契約。1948年に戦後ドイツで最初に再建された劇場。1962年にはベルリン郊外のポツダムにあるハンス・オットー劇場の音楽監督に就任。ヘルビヒは劇場指揮者を10年ほど務める一方で、ヘルマン・シェルヘン、アルヴィド・ヤンソンス、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指導を受け、コンサート指揮者に転向することになります。 1966〜1972 ベルリン交響楽団 指揮者 35歳の年に着任したベルリン交響楽団では、首席指揮者のクルト・ザンデルリング[1912-2011]と共に6年間働いています。ザンデルリングは、ショスタコーヴィチの友人で、1960年に東ドイツに来てからも親交が続いていたほか、マーラーの権威としても知られていたので、ヘルビヒにとっては得難い先輩同僚でした。 1972〜1977 ドレスデン・フィル 芸術監督 クルト・マズアの後任としてドレスデン市の音楽総監督&ドレスデン・フィルの芸術監督に就任。毎年、オーケストラと共に世界各地にツアーをおこなっており、日本にも来ています。また、クレンペラーの補佐としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者になっていたザンデルリングの誘いで、ヘルビヒも1973年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団に客演しており、以後、BBCとも仕事をするきっかけになっています。 1977〜1983 ベルリン交響楽団 首席指揮者 ザンデルリングが定年になったため、ベルリンから市の音楽総監督&ベルリン交響楽団首席指揮者として迎えられます。首席指揮者退任後のザンデルリングも頻繁に客演していたため、ベルリン交響楽団のコンサートはとても充実していました。 1977 新ホール建設の決定 戦争被害のため廃墟と化していたベルリンの演劇用ホール「シャウシュピールハウス」を、コンサート用のホールとして新たに建て替えることがに政府により決定し、1979年に工事が開始。ヘルビヒは喜び、ベルリン交響楽団が最優先で使えるよう政府との約束をとりつけ、1981年には工事中のホールで「工事現場コンサート」も開催。ヘルビヒがホールの使用条件にこだわった背景には、ドレスデン・フィル時代の苦労がありました。 1983 約束反故に対し抗議の辞任 10月、翌年に開場予定のシャウシュピールハウスの優先使用の約束が取り消され、単なる本拠地としての使用となったことに抗議してヘルビヒは辞任。これにより、SED (ドイツ社会主義統一党)から睨まれ、翌年、東ドイツを去ることになります。ちなみにベルリン交響楽団がシャウシュピールハウスを優先使用できるようになるのは、ドイツ再統一から2年が経過した1992年のことでした。 1984 アメリカに移住 ドラティの後、空席が3年間続いていたデトロイト交響楽団の音楽監督に就任。ミシガン州に居を構え、以後、トロント交響楽団、ハーグ・レジデンティ管弦楽団、ボルティモア交響楽団、ザールブリュッケン放送交響楽団、台湾フィルハーモニック、グラン・カナリア・フィルを中心に、世界各地のオーケストラを指揮。40年を経た今も現役です。  ギュンター・ヘルビヒ 3タイトル同時発売 ◆ マーラー:交響曲第5、6、9番、他 (3CD+ボーナスCD) ◆ ショスタコーヴィチ:交響曲第4、5、7、8、10番 (5CD) ◆ Powered by HMV 楽天Books
発売日/出版年度 : 2024年02月14日   JANコード : 0885470033037
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