失意の銀山経営から帰国した是清は、実業界に転身。銀行業界に入り、正金銀行副頭取を経て、日銀副総裁へと出世する。折しも日露戦争が勃発、是清は祖国の命運を担い、外債募集のため、アメリカ、そしてイギリスへと赴くが…。破天荒な青春を経て財政の神様となった明治人の生涯。11 実業界への転身とその修業時代12 日清戦争の頃―日銀馬関支店長時代13 正金銀行支配人時代14 正金副頭取から日銀副総裁へ15 日露戦争の勃発16 外債募集に使して17 第五回外債成立までの経路と対英米独仏財界の回願附録 高橋翁の実家および養家の略記失意の銅山経営から帰国した是清は、実業界に転身。銀行業界に入り、正金銀行頭取を経て、日銀副総裁へと出世する。折しも日露戦争が勃発、是清は祖国の命運を担い、外債募集のため、アメリカ、そしてイギリスへと赴くが……。破天荒な青春を経て財政の神様となった明治人の生涯。〈解説〉井上寿一高橋是清(1854ー1936)安政元年(1854)、江戸・芝露月町の幕府御用絵師の家に生まれ、生後間もなく仙台藩士の高橋家の養子となる。慶応三年(1867)、藩命によりアメリカ留学。明治六年(1873)文部省に出仕し、その後、農商務省特許局長などを務める。明治二十三ー二十四年にかけてペルーに渡り鉱山経営に携わるも失敗。帰国後、日本銀行に入り、日露戦争時は副総裁として英米にて戦時公債の募集に尽力。その後、日銀総裁を経て、大正二年(1913)、立憲政友会に入党。第一次山本権兵衛内閣蔵相、原敬内閣蔵相を経て大正十年、内閣総理大臣に就任、政友会総裁を務める。昭和二年(1927)田中義一内閣蔵相として金融恐慌の沈静化に手腕を発揮。その後も、犬養毅内閣、斎藤実内閣、岡田啓介内閣で蔵相を務めるが、在任中の十一年、二・二六事件に倒れる。
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