舟木重信と材木座小牧近江と稲村ヶ崎小島政二郎と二階堂吉屋信子と吉屋信子記念館大佛次郎と大仏裏手に住んだペンネーム菅忠雄と二階堂川端康成と佛日庵(円覚寺塔頭)・甘縄神明神社林不忘(長谷川海太郎)と向福寺三好達治と鎌倉極楽寺姥ケ谷中山義秀と真杉静枝と極楽寺〔ほか〕明治22年(1889)6月16日、東京と軍港のある横須賀を結ぶ目的で、官設鉄道大船駅〓横須賀駅の横須賀線開通時に、鎌倉駅が開業する。そして、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため「段葛」は寸断された。ちなみに江之島電気鉄道路線(現・江ノ島電鉄線)は、明治43年(1910)11月4日に鎌倉方面へ延伸し、大町駅(現在は廃駅)〓小町駅(鎌倉駅の前身にあたる、廃駅)間が開通し、これをもって全線開通する。横須賀線鎌倉駅設置で東京からの便がよくなり、文学者らがこの頃から鎌倉へ訪れるようになる。加えて横須賀線の本数増や、複線化(大正13年)、東京〓横須賀間の電化(大正14年)、北鎌倉駅の本駅開設(昭和5年)等もあって、京浜方面や横須賀軍港への通勤を可能にし、海軍軍人や、俗にいう別荘族などの定住化が促進され、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。大正12年(1923)9月1日、関東大震災の発生。鎌倉にも大きな被害あったが、この大震災をきっかけとして、壊滅状態となった東京に比べれば遥かに被害の少なかった鎌倉と浦和(現在のさいたま市浦和区)に多くの文化人が居を移す時代が到来する。大正後期のこの時期を中心とした鎌倉と浦和の文化人を、それぞれに「鎌倉文士」・「浦和画家」と呼ぶようになる。そして、昭和4年(1
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