東郷平八郎(1848~1934)明治大正昭和期の海軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士東郷吉左衛門,妻益子の4男,妻は子爵海江田信義の娘テツ。日露戦争における日本海海戦の凱旋将軍として圧倒的名声を誇る。そのため多数の伝記があるが,日露戦争後から死去する昭和9(1934)年までの29年間は知られず,誤解されてきた側面が多い。明治4(1871)年から11年までイギリスに長期留学したが,その前までは非常なおしゃべりで大久保利通に注意されたことさえある。しかし留学中寡黙の人に変身,終生変わるところがなかった。異なる言語習慣に苦しんだ末の変質で,英国人の友人ができなかったのもそのためであろう。帰国後もっぱら海上勤務に従事,中央での勤務が海軍大学校長と軍令部長の2回しかないのも珍しい。明治17年清仏戦争の際には「天城」艦長として仏・クールベ艦隊に従い,26年にハワイ政変が起こると浪速艦長として居留民保護に急行,日清戦争(1894~95)では開戦の口火となったイギリス商船「高陞号」を撃沈し,33年義和団事件が中国に起きると常備艦隊を天津に集結させ,歴史的事件が起きるごとにきまってそこに東郷がいた。36年連合艦隊司令長官となり,日露戦争終結まで艦隊を指揮,38年5月27日から28日にかけて,日本海でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ,日本の勝利を決定的なものとした。38年軍令部長,42年軍事参議官となって第一線から退いた。大正2(1913)年元帥に列し,3年から10年まで東宮御学問所総裁として昭和天皇の教育に尽力し,社会的重みを加えた。昭和4年先任元帥井上良馨が没すると言動が活発化し,5年のロンドン軍縮問題で艦隊派の精神的象徴となり,8年まで軍部の動向や政局の混乱に大きなかかわりをもった。
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