幕末のペリー艦隊で来日し、ペリー自身の日記や公式記録とは異なる視線で日米交渉の一部始終を目撃した首席通訳官による貴重な記録。下田では密航を企て黒船に乗り込んだ吉田松陰を諭し、琉球では役人や裁判官のすぐれた道徳に感嘆する。そこには、時に高圧的な米国使節への冷静な目と、日本の庶民や自然への優しい眼差しがあった。沖縄へ―一八五三年四月九日から六月八日まで小笠原諸島調査―六月十一日から二十二日まで沖縄に帰る―六月二十三日から七月一日まで第一回日本訪問―七月四日から十六日まで沖縄に帰航、香港へ―七月十七日から八月六日まで四度、沖縄へ―一八五四年一月十一日から二月六日までふたたび日本訪問―二月七日から三月七日まで神奈川条約締結―三月八日から四月十七日まで下田港へ―四月十八日から五月十二日まで箱館港の調査―五月十七日から六月三日まで下田へ帰港―六月七日から二十五日まで最後の沖縄―七月一日から十六日まで広東へ帰着―七月二十日から八月十一日まで幕末の黒船、ペリー艦隊で来日し、ペリー自身の日記や公式記録とは異なる視線で日米交渉の一部始終を目撃した首席通訳による貴重な記録。1837年、日本人漂流民を送還しようと浦賀に来航した米商船モリソン号に同乗したサミュエル・ウィリアムズは異国船打払令により砲撃を受けマカオに退去したが、日本人船員から日本語を習い、ペリー日本遠征の通訳として1853年艦隊に同行。沖縄、小笠原諸島を経て久里浜に上陸し、開国を求める米大統領フィルモアの親書を浦賀奉行に渡した。翌年再び日本に来航して神奈川条約を締結した。鎖国の重い扉をこじ開ける「むずかしい任務を達成するための欠くべからざる奉仕」に尽力したとペリー提督が称賛した首席通訳の随行記には、遠征への冷静な目と日本人に対する優しい眼差しが
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