国際的評価の高い複合金属製品産地・加工基地。その尽きせぬ活力に「事業転換」のヒントを探る。114事業所訪問のモノづくり産業大全。燕の産業経済の歴史と輪郭洋食器産業の繁栄とその後の展開自社ブランド製品を展開する中小企業金属洋食器、器物を高める中小企業大規模工場、機械、金型メーカーの展開研磨、表面処理系企業の集積地域の基盤技術の展開卸売業、関連部門の展開燕地域産業と中小企業の未来1987年/燕、三条にみる地方工業集積地の構造問題―広域的リンケージと都市型工業への課題〔ほか〕私が新潟県燕市を初めて訪れたのは、プラザ合意の翌年、1986年9月のことであった。急激な円高の影響は大きく、各地の輸出型地場産業は構造転換を余儀なくされていく。この円高問題に関してマスコミが常に真っ先に報道したのが、カトラリーなどステンレス製洋食器の対米輸出産地・燕だった。当時は「ツバメが鳴けば補助金がおりる」とまでいわれていた。 燕市の産業化は江戸初期に始まる。信濃川の度重なる氾濫に悩まされ疲弊した人びとに、中越の出雲崎【いずもざき】代官が和釘の技術を伝えた。その後、銅器、煙管、ヤスリなどの技術が導入され、和釘を中心に金属製品産地が形成される。だが、明治中期には主力の和釘は洋釘に席巻されていく。 第一次世界大戦期には、戦場となったヨーロッパで洋食器が生産できなくなり、代替地として日本の燕に白羽の矢が立った。企業家精神旺盛な燕の人びとはこれに果敢に取り組み、その後の基幹的な産業に育てていった。 第二次大戦後は朝鮮戦争特需で沸き、ステンレスへの転換が一気に進んだ。1950年代中頃以降は対米輸出を急拡大させ、早くも57年にはわが国初の日米経済摩擦に直面。これに対し、輸出自主規制という枠組みを作り、それがその後の日米経済摩擦(
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