正義の王国は実現できたか?幸福の追求が生んできたものは?中世の千年王国論から近代のユートピア、進歩思想まで、キリスト教文明が内包する異端の流れは、途切れることなく今日まで脈々と生き続けてきた。キリスト教文明の懐に生き続ける、集団的心性としての正義の夢。第1部 キリスト教圏の千年王国論の構成要素第2部 暴力的千年王国論第3部 千年王国論の新たな次元第4部 千年王国論の世俗化第5部 地平線の幸福―未来主義のテキストのアンソロジー(十八世紀末‐二十世紀)結び 方向転換ドリュモーファンに贈る[楽園の歴史]3部作の第2弾膨大な一次資料と該博な知識で、キリスト教の二千年を俯瞰する壮大な心性史、待望の続刊 人間はどこかに幸福の在りかを求めずにはいられない。 個人が幸福を求めるのみならず、集団も幸福を求める。 〈楽園の歴史〉3部作でドリュモーは人間のこうした願望の西欧史における形態、役割を追及する。 第1巻『地上の楽園』で、「悦楽の園=エデンの園」のヴィジョンの歴史を検討した歴史家が本書『千年の幸福』で取り上げるのは、キリスト教世界で、人類の選良にとっての幸福への待望が取った形態のひとつ千年王国論である。神による最後の審判以前に、キリストが正しき人々とともに千年の間地上で正義の王国を実現するという思想である。「エデンの園」が遠い過去に幸福を見たのに対して、千年王国論は未来に人間の輝かしい幸福を見る。幸福を求める切なる願望は、幸福の時である千年王国到来の時期を間近のものとして期待させる傾向を持った。さらには千年王国の到来を待ちかねて、その時を人間の力で早めようとする革命家たちの出現の契機ともなった。 カトリック、プロテスタント双方において異端とされつつも、千年王国論は歴史の伏流として大きな影響
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